もう少し私のこと プロフィール

年 齢:1967年(昭和42年) 生まれ

住まい:東京都

家 族:夫と愛息:1999年生まれ(軽度知的障害を伴う自閉症)

趣 味:発酵食品や自家製果実酒づくり / 風水を考慮した住まい改善  / 切り花や観葉植物を水差しで発根させる

少し語れるコト・誰かと語りたいコト:★70年代の平凡・明星の付録にあった歌本の中の曲や「ザ・ベストテン」の頃の歌手について ★70、80年代の映画について ★中高年女性の体の悩み 

セカンドステージのために、働きながら50才前後でとった資格

<取得した資格>

・宅地建物取引主任者
・管理業務主任者
賃貸不動産経営管理士
・競売不動産取扱主任
・ファイナンシャルプランナー3級
・ホームステージャー2級

★こんな資格もとりました

・風水セラピスト
・風水鑑定士
・手相鑑定士

 

これまでの職歴

短大卒業後は、CM制作会社と広告代理店のマスコミ関係で4,5年。最初は制作現場でバリバリ働くことを夢見ていました。

しかし、あの頃はマスコミ業界も古い体質で、女性が制作現場で活躍できるのは稀でした。

華やかなイメージとは大きくかけ離れた、閉鎖的な業界でした。

夢はしぼんでいきましたが、唯一のうまみと言えば、タクシーが使い放題だったことです。通勤、移動はほぼタクシーでした。

いずれも親の縁故就職でしたが、親に相談もせず勝手に辞めてしまいました。

やたら威張るコピーライターが嫌だ、クライアントと広告代理店への接待が嫌だ、などの理由です。

「仁義を切らなくては」と言って会社に頭を下げていた親を見ても、自分の正当性を主張し続けるような、世間知らずの子供でした。

親に何とかしてもらえるという甘えもありましたが、その後は親の協力は得られなくなり、自力で職を探すことになります。

両親は小学校の時に離婚し、父はすでに再婚し新しい家庭もあったので、私は突き放されたような気持になり、恨みのような寂しさのような複雑な気持ちでした。

この頃23,4歳頃でしょうか。

その後、やりたいことも見つからず、日銭を稼ぐのに毎日追われる日々を数年間・・・。家賃を払うのに精一杯の日々でした。

もちろん国民年金なんて払えませんでした。だからもちろん老後も不安です・・・。

その間に経験した仕事はトラックの運転手、漬物工場下漬け業務、雑誌編集者、カラオケスナック・小料理屋店員等々・・・。

朝晩wワークで働いて、私の中で生活の最低基準だった月収20万円を、なんとか稼げたり稼げなかったり。

まずはトラックの運転手。当時は女性ということで珍しがられました。家電を近県に運んでいました。

1年以上続けましたが、慣れてきた頃に気が緩んで、帰路で渋滞があるとパーキングで昼寝をするように。荷下ろしをするセンターの人は、夕方遅くまで私のトラックだけを待っている状態でした。大迷惑な運転手です。

そんな勤務態度が許されるわけもなく、最後はやんわりとクビでした。

ちゃらんぽらんな数年間の生活を経て、やっと脱却を決意したのは26,7歳です。

次は将来に続く仕事をしようと思いました。

そこで以前から興味があった雑誌編集者のアルバイトに申し込みました。最初は不採用でしたが、熱い思いを手紙にしたため投函したところ、熱意を買ってもらい、採用となりました。

超薄給でしたが、勉強するつもりでしたので気になりません。大手出版社の孫請け会社でしたが、すぐに現場へ出してもらえました。

地球の歩き方やメンズクラブの取材に行き、「デンスケ」を肩に担ぎインタビューしては、会社に戻ってテープ起こして原稿を仕上げる仕事です。

当時はワープロでしたので手が疲れてしまい、時間に押されている時は、氷で手を冷やしながら原稿を打ち続けていました。(もちろんサービス残業です。自分の能力の無さから時間がかかってしまう、修行させてもらっているのだから、という気持ちでした)

最初は情熱を持ち、元気印で頑張っていましたが、原稿はほぼダメ出し。ここでも夢がしぼんでいきました。というより、現実と己の能力の無さを突き付けられました。

何より雑誌の編集を生業にしていくためには、自分には圧倒的に語彙が足りないし、このブログでもおわかりかと思いますが文章力がないのです。

小学校の頃から結構な読書好きだと自負していましたが、ちょっと読書が好きなだけでは、物書きにはなれないことがわかりました。雑誌編集者の夢はここで終わりです。

編集者見習いは超薄給だったので、夜はカラオケスナックでアルバイトしていました。このスナックのアルバイトをしつつ求人雑誌で見つけたのが、現在の会社です。

入社後数か月は昼夜働いていましたが、現在の仕事が続けられそうだったので、数年間続けたWワーク生活に終止符を打つことができました。

現在の仕事と脱サラ計画

28歳ごろから現在の会社(医療関係補助業務)に勤続中です。

勤続20年を超えた頃から、脱サラを考えるようになりました。

しかし、安定した収入でぬるま湯につかりきっていた自分は、将来のビジョンも能力もない自分に初めて気づき、焦ります。

折しも47才から行政書士にチャレンジしている高校時代の友人から、「じゃあ、宅建でも受けてみたら?」のひとことで受験を決意。

その時は「よーし、宅建をとったら不動産屋になって会社をやめるぞー」と密かに誓い、また簡単にできると信じていました。

宅建取得後は、まずは行動と地元の不動産屋で週末バイトを始めました。勤務時間の調整がうまくいかず、4カ月ほどで辞めましたが、「不動産業は自分に向いている、いつの日かきっとやるぞ」と自信がもてたことが収穫でした。

その後、あれこれ画策(迷走)しておりました。えーっと、エニアグラム、ストレングスファインダー、開業セミナー参加・・・。

「自分は何のために生まれてきたのか?」「自分のミッションって?」「自分が本当にやりたい事って何だろう?」キーワードは「自分探し」。

だけどこれがちっともうまくいかない。

時間ばかりが経つようで焦りもあり、再度資格で週末に「副業」しようと10社ほどに履歴書を送ってみましたが、返事はたった1社のみ。その1社も電話面接で落ちました。

「不合格にしたって返事すらこないって、こういう業界気質なのかしら?」最初の4社くらいまではそう思っていました。

否、そうではなくて50才すぎの未経験者は、選考の土俵にすら上がれない。その前に、履歴書ポイッ、返事も不要。これが現実・・・ということなんですよね。

資格さえあれば簡単だと思っていた「脱サラ」への道は全く開けず、ヤケ気味になり

るいこ

「会社はとりあえず辞めちゃって起業するか・・・」しかし何屋の看板あげようかな?

①未経験の不動産屋?
②今の仕事を少しずらして、自分のお客さんに声かけて独立?(競業 まずいよね)

さて、どっちにしようかな・・・

         と常に二択で迷い、結論を探し求める毎日となりました。

ブログを始めたワケはアノ方との出会いから

暗中模索の「自分探し」はもう手詰まり感いっぱい。そんな時に運命の出会い。それが後藤さんの手相鑑定です。

詳しくはコチラ

「今の仕事は本当にやりたいこと?」自分を知りたい人必見。 「手相鑑定」で今まで気が付かなかった「自分」を教えてもらおう! 私が今やるべきことは何? 使命ってあるの? ここから抜け出したい!! 進むべき道に迷ったら 誰かの力を借りて[…]

私は「今、会社辞めてOKですよ、どちらかというと不動産屋がいいんじゃないですか。」などと、どちらかを選ぶ後押しをしてほしかったのですが、鑑定は予想もしない結果でした。普通の手相鑑定ではありませんよ!

後藤さん
ひとつに決めなくていいんですよ。並行していくつもできます!あと、SEO対策線がでているのでブログなどで文章書いてみてはどうですか?

だってこんな鑑定ですよ。聞いたこともないでしょ、SEOなんて。元来猜疑心のとても強い私ですが、鑑定時にいただいた資料や録音dataをもとに、後藤さんのアドバイスを数日間かけて私なりに理解した結果、

るいこ
まずはブログからやってみよう。ここから始めてみよう!

と自分でも不思議なほどすんなりと方向性が定まり、これだ!と確信しました。

すぐに始められる目標が定まったので、無謀な退職もあっさりあきらめ、気持ちがラクぅ~になりました。不思議です。

20年以上前からホームページ制作に興味があり、覚えるチャンスは何度もあったのに、外注が当たり前になってしまっていた「web関連」業務。

いつしか時は流れ、webに対する向学心も気力もうすれ、淡々と業務をこなすだけの毎日を25年以上。

それが後藤さんの鑑定をきっかけに、今度は自分のために一からブログを勉強し始めるという、「次なるステージ」への第一歩を踏み出すことができたのです。

今では「ブログ制作に着手している私」が本当の自分となり、会社での私は「仮の顔」となったことで、今までのような「オレに触るとやけどするぜぇ」という、怒りに満ちた勤務態度は変わりました。

「お金をいただけるだけ、ありがたい」の気持ちを持ちつつ、退職できるその日を夢見てせっせとブログ勉強の毎日です。

このブログへの思い

お気づきでしょうか?

ブログタイトルの「パラレル」は後藤さんの手相鑑定「松さんは・・・平行パラレルしてできるよ」という鑑定から。

「55」は「55歳からパラレルキャリアが始動できますように!」という自分の願いからつけました。

今、54歳でスタートをきろうとしている自分はラッキーだと思います!

後藤さんの鑑定が当たるかどうか?

それは当の私がもっともワクワクしながら楽しみにしているのです。

 22歳 自閉症愛息との子離れについて

自分にはできなかったからこそ、子供にはエリートコースを歩ませるのが当然、と思って出産した息子は自閉症です。

泣いたり、心配したり、不安だったり、杞憂だったり。その子育てにも区切りをつけなくてはいけない、と思う年頃になりました。

私に「母親」という役割を与えてくれた息子に感謝しています。

「普通じゃないんだから守ってあげなくちゃ」と思って、守ってあげることが、私の存在理由のようになって、いろんなものと闘ってきました

離れたくない。家の料理もすべてやってくれる彼。頼りになる彼。でもこのままいけば、私と息子は老老介護になってしまう。子離れしなくちゃ、そのためにもパラレルキャリアを目指さなきゃ。

親なき後に息子が「人生って素晴らしい」って感じながら生活していけるように、私も息子も笑ってこの世とおさらばできるように、私の残りの人生でイロイロ積み上げていく覚悟です。

このブログから始めて、実現したい夢

息子の親なき後を考えた時、最初にでてくるキーワードが「グループホーム」です。

これからいろいろなグループホームを見学し、現実を知っておかなくてはいけません。

もしも理想的なグループホームがなかったらどうしよう?

一人暮らしのための、フォローシステムの構築?自分が考える理想的なグループホーム運営?

そんな道すじができた時こそ、宅建を生かして、障害者が地域で普通に生活できる住環境の構築を目指したいです。

 

最後に

ここまでお読みくださりありがとうざいます。

パラレルキャリアを考えている同世代の方や、障害児との子離れを考え始めた方、情報共有できたらうれしく思います。

よろしくお願いいたします。