自閉症と診断され、「みんなのように定型発達はしないんだ」と、頭ではわかっているつもり。
でも思ってしまう「もう少し普通に近づけるんじゃないだろうか?」。
小学校選びの入り口は、特別支援学校(級)or普通学級。これが最初のわかれ道。
特別支援教育制度、通う権利がある子は迷わず選ぶべし!だと今だから言えるのです。
学校とバトルしながら、普通学級にこだわっていきますか?それは誰のために?
15,6年前までは選択肢も情報もほとんどなかった。
今はどうかしら?インクルーシブ教育?うまくいってますか?
笑わない赤ちゃんだけどこれって個性?自閉症という言葉が頭から離れない!
赤ちゃんの頃は、お腹がすいた時にはよく泣き母乳8割、仕事中は母が面倒をみてくれたので粉ミルク2割くらいで授乳しました。とてもよく飲み、順調に体重も増えました。
明るい将来に向けて「ベイビーショパン」なんかを聴かせて、栄養も気遣いました。
ただ、気になることは笑わないことと、抱っこすると背中をそって嫌がること。ちょっと愛想がない子なんだ、と気にしない様にしていました。
まだお座りできるかできないかの頃、私の父が「この子、自閉症じゃないのか?」と言ったのです。
私は少し怒りを感じて「そんなことないよ」と言いましたが、誰よりも早く、2歳の時にその言葉を口にしたのは、年に数回会う父だったのです。
私はその言葉を信じまいと思ってはいましたが、日増しに「自閉症かもしれない」と心の中で思う時が多くなっていきました。
私はそのモヤモヤした気持ちが嫌で、いつくかの大きな病院を受診しました。表情がなかったり発語がなかったりの心配ごとを伝え、「自閉症」ではないか?と勇気を出して医師に聞きましたが、「目も合うし、そうとは言いきれません。様子を見ましょう」と言われ、納得しないけれど、ほっとして帰途につく・・・の時期でした。
母子手帳には、成長のチェック項目について、できないことが多い事への不安、気になる様子などの心配事が書かれています。
しかし、1歳児から3歳児検診までは異常は指摘されなかったのです。「息子は定型発達」であることに、望みをまだつないでいた頃だと思います。
発達の遅れを指摘された保育園| 障害児?「やっぱりね」と「でも治るよね」
1年半程待機して区立保育園入りましたが、息子にとって生まれて初めての社会生活は、母子(正確には母)にとって夢や希望というものが大きく形を変えていく保育園時代となりました。
入園して数か月経ったころでしょうか。先生に「○〇君ちょっと心配なところがあるから、区の療育センターで一応見てもらったらどう?」と言われました。
私は「来る時が来たな」という気持ちでした。
療育センターでは行動観察の後、「多分自閉症で間違いないですね。紹介状書くから、都立梅が丘病院で受診してください。」と、あっさり告知されました。
やっと?やっぱり?梅が丘病院では、「広汎性発達障害」と診断されました。あきらめと安堵の気持ちです。
保育園の先生⇒保育園の療育センター⇒梅が丘病院での診断確定までの流れは、取り乱す親の心理をよく考えた段階的な儀式のようだ、後に思いました。
「わが子に障害がある」と知った時のショックは、どの親にとっても、それまでの人生maxの衝撃です。
様々な機関のいろんな人に説明してもらって、少ーしずつ現実受け入れてくださいね、という数段階です。
徐々に冷静になっていき、対外的にも自分の気持ちでも、一応受け入れたという感じにはなりました。
でもね、ある日、保育園に迎えに行くと息子が上級生と遊具の上にいました。その上級生は息子に向かって「お前、ばかなのか?ばかなのか?」と繰り返し聞いていました。息子はというと怒るわけでもなく無反応です。
こんな場面に直面すると、やはり大人じゃいられない!私のとっても悲しい怒りは、先生に向かってしまうのです。
こんな私の闘いは、息子の社会生活(主に学校)の中で、この頃から延々と続くことになります。
知的障害のある自閉症児の学校選び|小学校:普通学級?本当にグレーゾーンなの?
小学校進学時には、特別支援学校小学部と区立小学校の支援級を見学しました。
しかし、息子の行き場所はここじゃない。絶対に普通学級だと。自分の気持ちを確認するための見学だったように思います。
普通学級へのこだわり・・・誰の意見も私の耳には入りません!
それも理由の一つではありました。でもこのタイミングじゃなかった・・・。
本心は「自閉症は軽くなり、少しは普通に近づけるはず」と頑なに信じていたから、に他ならなかったのです。
一人で通えそうな立地にある全ての学校を見学しました。
その中で普通学級で受け入れてもらえそうな学校には、校長先生にアポをとり子供を同行させて、受け入れ可能かどうかを交渉というかアタリを確認に行きました。
入学予定者数などもリサーチし、1学級の人数を確認しました。少人数の方が手厚く、手をかけてもらえると信じていたからです。
体験入学を経て、晴れて1学級(30人以下)の「普通学級」に入学できました。
息子には多動がなかったからです。その当時の普通学級受け入れ基準は、「多動があるか否か」が大きな決め手でした。
桜吹雪の入学式は、それはそれは希望に満ちた日でありました。
そこから6年。
学校と闘いながら、疎まれながら、普通学級で6年間過ごしました。
5年生頃には支援級への移動をすすめられましたが、拒否した私は、普通学級に無理を言っておいてもらっている感覚になり、要望なども言えなくなってしまったのです。
こちらも不満、学校側も私を無視・・・こんな5,6年生の2年間でした。
その結果、中学へ進路相談は信じられないような冷遇でした。
通学区の問題もあり、小学校長以下担任・スクールカウンセラーの誰もが進路相談にはのってくれませんでした。
区の学事課も示し合わせたように同じです。「お住まいの地域で相談してください」
6年間を共にし、理解のある同級生と同じ中学へ進学したかったのですが、一方的に受け入れを拒否されたのです。
現場に判断を一任しているという、教育委員会にも大きな疑問を感じました。
スポーツ特待や学業優秀な子供は、welcomeで越境学区問題もクリアしているというのに、この差は何の差でしょう?
第一にわからないことを「わからない」と言える環境が一番。
わかっていない自分を自覚して、それを誰かに伝える方法も、きっと支援級では教えてくれると思います。(SOSを出せる子供になることができる)
なぜって、自分の気持ちを知る(認識する)って、丁寧に気持ちを確認してくれる環境(人)がないと、できるようにならないと思うからです。
普通学級では授業を理解できていないのに、「大丈夫?わかった?」と先生に聞かれたら、「はい、わかりました」というのが習慣になる可能性があります。
先生もいちいち理解度の確認なんてしてくれません。
さぞかし、不安だったと思います。わからないまま6年間です。もちろん自己肯定感なんて育めない。周りのマネをしているだけ。
もう一度やり直せるなら、迷わず特別支援教育を受けさせたい!
これは高校で特別支援教育に身を置き、その手厚さと安らぎを実感したからこそ思うのです。
私の無知なプライドのせいで息子の「自信を持って生きる事を体得する時間」を奪ってしまったこと、今でも後悔しています。
息子を「グレーゾーン」だと信じ込もうとしていましたが、息子はグレーゾーンでもなく、明らかな知的障害児だったと思うのです。
知的障害のある自閉症児の学校選び|中学校:アノ有名な私立中学校に合格!!
小学校や教育委員会に憤っていた私は、区立中学の障害学級や普通学級と並行して、偏差値が低く多様性をカラーにしている様な私立中学も並行して見学に行きました。
しかし中学ともなると、さすがに知的障害の伴う自閉症に、普通学級の門戸は開いていません。
そこで私が第一本命に決めた私立中学校は、隣県にある人気私立中学です。超狭き門です。
情報収集をし、合格のためにやれることは家族一丸となって可能な限りやりました。
結果、晴れて合格することができました。
小学校の校長に「どーだ!」という気持ちになり、抱えていた怒りが大分収まりました。
それほどこの中学合格は、マグマのようにたまっていた怒りや悲しみを和らげてくれたのです。
その中学は、発達障害児に特化した独自の教育方法が確立されています。
学習障害や高機能自閉症、アスペルガーなど、少しハンディのある生徒が多く在籍しています。ただ、知的障害を伴う自閉症の生徒はほんのわずかでした。
そんな少数派の息子でしたが、優れた教育プログラムによって、部活でも活躍の場をいただき、楽しく穏やかに3年間をすごすことができました。
約3時間近い通学時間も通い切りました。
さて、高校はどうするか?
中高一貫校ですので、ご学友のほとんどはエスカレーターで高校へ進みます。
進路相談で担任の先生に聞いた事はただひとつ。
「息子はこのまま高校へあがって、いわゆる青春ドラマのような学園生活を送れますでしょうか?」
先生の答えはこうです。
「青春ドラマのような学園生活・・・それは正直言って、難しいかもしれませんね」
そうですか・・・やっぱりね。そのあたりははっきり教えてくれて、ある意味その担任の先生は親切だと感じました。
いじめもなくとてもいい学校でしたが、息子には休み時間や休日に遊ぶ友人ができませんでした。
他人への興味が希薄だからだと思いますが、会話のキャッチボールができないのです。
通学時間、学費、その他外部からの入学者の割合、そして「青春ドラマのような学園生活…」など、検討しました。
何より本人は、そのまま高校へあがっても、違う学校でも、どちらでもいいと言っていました。
というより、その近い未来を思い描いてみて判断する、というのは彼にとって難しいことなのです。
どうしても一緒にいたい友達がいない・・・それもさみしい感じでしたが、方向性は決まりました!
知的障害のある自閉症児の学校選び|高校:都立特別支援学校の職業コースを目指す!
都立特別支援学校の「就業技術科」「職能開発科」には入学試験があります。
もしも受験に失敗した場合は、地元の特別支援学校普通科に行くことになります。
事前に不合格時に通う学校を見学しましたが、正直「ここの特別支援学校でもいいな。」と思えるほど、手厚い感じがしました。
無事に試験には合格し、就職に向けて様々な勉強や技術を学んでいくことになりました。
入学してスグに思ったことは「この学校で大正解!」です。
息子は初めて地に足をつけて歩いている感じ。私は長年の煩悩から解放される感じ。
それと同時に「先が見えてきたな」と思いました。悪い意味ではありません。
息子の伸びしろや、できること・できないことがほぼ明確になってきたので、今後はある程度決められた流れの中で、最善の道を選ぶことに尽力すべし、という気持ちの切り替えですかね。やっと私が現実に向き合えた、のかもしれません。
入学して間もないお母さん達との集まりでは、それまでの道のりをお互いに話しました。
支援級でずっと過ごしてきた子ども達、ずいぶんしっかりしているなぁ、つい息子と比べてしまいます・・・。
「うち、小学校は普通学級だったの」。だから何?って自分でツッコミたい気分です。
学年が上がってきて、学校への信頼感が増すと同時に、何で最初から支援学校にしなかったんだ、という自責の念が大きくなりました。今更です。
そんな母子ともに穏やかに過ごした高校3年間は、休むこともなく、部活も最後まで続け楽しく過ごせたと思います。
もちろん、不満がほぼないから、学校と闘う場面もありませんでした!!! 軽く要望程度です。
実は入学当初、息子に腹心の友ができたらいいな、というのが私の密かな願いでした。(←「友との青春」をまだあきらめていない私)
が、それはかないませんでした。これが息子のハンディなんですね。一人でも愉快に生きていく術を身に着けていってほしいです。
親友こそできませんでしたが、今でも年に1,2回、同級生何人かで映画やテーマパークに行っています。イベント時だけでも、声をかけてくれる友達がいることに感謝ですね。
感受性、共感性に乏しい? それが息子の個性なんだな・・・
たまに思います。私が死んだときに悲しくなってくれるのかな?
大好きだった祖父が死んだ時も泣きませんでした。泣く時は自分の思い通りにならなかったり、私に対して怒りを感じた時だけです。
正直言って、特別支援学校の卒業式に泣いていた同級生が、心から羨ましかったです!!!!
おっと、いけないいけない。また他の子と比較してしまった・・・
そんな息子ですが、いくつかの実習を経て、希望の企業に無事に就職することができました。
知的障害のある自閉症児の就職|社会人になったから子育て卒業?
息子の会社は障害者雇用を積極的に推進している会社で、かなり手厚いサポートがあります。
こんないい会社に就職できた息子は強運だな、と思います。
会社では年に1度、連絡会があります。真面目な仕事ぶりは、評価していただいているようで、ひとまず社会人の1歩は順調な滑り出しです。
これから社会人として、生きていく必須スキルとして、わからないことを「わかりません」と言えること。
「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」をリアルに理解してくれたらいいなぁ、と切に願います。
私が反省の意味も込めて、この部分は根気強く、丁寧に責任をもって教えていくように心がけています!
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家での彼はまさに太陽です。息子がいなければ、この家庭は体をなしていません。
見苦しい夫婦喧嘩を見かねて「まあまあ、俺がやるよ、どうやるの?もういいでしょ?ねっ?」と、ニコニコして仲裁してくれます。
心優しき息子。そして超不完全な親2人。
補い合って、三人寄れば文殊の知恵。そんな風に過ごしてきた22年間です。
ですが子離れの時は近づいていると感じていますし、しなくてはいけないと思うのです。
通勤寮、グループホーム。
息子が親なき後を、幸せに生きるため。
私の人生の最終目的は、そこにフォーカスしているのです。